ブルース・ウィリスに高級ホテル。なにやらセレブな単語に釣られ、浮かれここまで来てしまったが、このシチュエーションには些か問題があるような気がする。巨大なベッドに腰を降ろし、今ここにある状況を改めて確認。
 問題その1.よく知りもしない男とふたりきりで、ホテルのスウィートルームにいる。
 問題その2.その男はゲイ。
 問題その3.その男はローマンからの紹介。
 問題その4.その男は今、風呂に入っている。
 問題その5.こっちは既に風呂上がり(ここのバスルーム、おれの部屋より広かったぜ!)
 結論。おれはずいぶん舞い上がってる。それは状況判断もままならないほどに。しかしこの状態で舞い上がらないでいられるか? 答えはノー。少なくともおれには無理だ。
 ここに来てからというもの、次から次へ、いろいろな思いが頭をよぎる。『このミニバー、ちゃちな酒場よりよっぽど酒が揃ってるな』とか『バスルームのアメニティを持って帰りたいけど、それはやっぱりセコい?』とか。そういうのが止めようもなく、浮かんでは消え、そのなかには『おいオマエ、ここに来たってことは覚悟はいいんだろうな?』ってのも、実はあった。
 顔が映るくらいピカピカに磨かれた銀食器、ベッドサイドのランプはガレ。飾ってある絵画を見、それほどいいものじゃないと思ってしまうのは職業柄。室内は完璧。状況も完璧。プリティウーマンのように扱われ、喜ぶ女の気持ちがよくわかる。わかりはするが、しかし…………。
「何か飲むかね?」と、サウナ以外では遭遇しないような格好のハリー。彼はヤル気に満ちている。こっちもバスローブ姿なんで、人のことは言えないが。
「いえ、おれは酒はもう……」
「そう? わたしは少し貰うとするよ」
 グラスにブランデーを注ぐ。彼は相当酒に強い。さっきから飲んでる量を合わせると、軽くハーフボトルはいきそうだ。日中は仕事、その後はプール。バーを二件はしごして、それで風呂上がりにアルコール。このまま疲れ果てて眠ってくれればいいんだが、このタフガイにはそうもいかないだろう。
 草花のエッチングを見つめ、半裸の男から目を逸らす。ホテルやカフェなど、公共の場所にある絵画は、どうしてこうどうでもいいようなものばかりなんだろう。“インテリア”としてはいいかもしれないが、“芸術”として見れば、それは残念なレベルでしかないものばかり。それでもおれは絵を見つめ続ける。他に視線を動かすことが出来ないでいる。
 “ことん”、これはハリーがグラスを置いた音。
 “ぎし”、これはハリーがベッドに座った音。
「ディーン……」これはハリーの声。呼ばれたのはおれの名前。
 “どきどき”、これは心臓の音。たぶんおれの。
 “ぎゃー!”、これは心の声。これもまたおれのもの。
 “ぎゃー!”であるにも関わらず、おれは彼からキスを受ける。いったいこれはどうしたって言うのか。まるでヴァージンみたいに動けない。ああ、それにしてもこのキスは……。まったく、なんてキスをするんだこの野郎。“ぎゃー!”がどんどん小さくなっていく。空気の抜けた風船のように、しゅるしゅると。ハリーの舌はブランデーの味。すべての異論を封じ込める魔法の口づけ。
 そうっと離れ、おれのバスローブの中に手を入れる。足の間に手を伸ばし、“おや?”という顔をする。そうだ、これからセックスするのに下着を着ける馬鹿はいない。つまりこの格好この意味するところは……。
「わたしと寝るつもりはない?」と、ハリー。
 さすがは鋭い。“一を聞いて十を知る”とはこのことだ。
「あの……おれは……」
「いや、実はわかっていたよ」
「え?」
「“そんなつもりはない”、そうだろう?」両の眉を上げるハリー。それは何やら楽しそうにすら見える表情だ。「きみがぼさっとしているのをいいことに、ここまで連れてきたんだ。我ながら実に上手くやったと思うね」
「じゃあ……ってことは……」
「いや、もちろんわたしの方は“そのつもり”だよ」一を聞いて十を知る男がたたみ掛ける。「でもきみを強姦するつもりはない」きっぱりと言い、ベッドに寝転ぶ。
「しかし……きみはいつもこんなに簡単なのかね? 子犬を連れ去るよりも楽だったよ」
「馬鹿な! いつもじゃありませんよ!」
「そうか、では今日は“特別”というわけなんだな? いつもはしないのにここまで来てくれたとは。わたしはよっぽど気に入られたらしいね」
「あ……いや、それは……」
「ほくろだ」
「え?」
「そこにほくろがある。自分じゃ見えないかな?」
 たとえ見える位置にあったとしても、自分のほくろをいちいち確認することはあまりしない。
「どこです?」
「ここだ」言って身を乗り出し、おれの首筋、ほくろがある“らしい”位置をぺろりと舐める。そうか、そこか。教えてくれてありがと。背筋がぞくっとしたよ。
 そのまま頬を滑り、唇を奪う。ああ、またこのキスだ。しかも今度はやけに長い。バスローブに両手を挿し入れ、そっと背中を撫でるハリー。そのセクシーな動きに、おれの肉体は意に反して反応を始める。おれは簡単? 子犬よりも楽勝? “強姦するつもりはない”とハリーは言った。おれはそれを聞いて安心したのだが……いつの間にやら、ふたたび彼のペースになっている。
 撫でられ、舌を入れられ、おれのペニスはカルバンクラインの名前にかろうじてひっかかってる状態。一を聞いて十を知る彼が、おれの股間からメッセージを読み取るのも時間の問題だ。
 仰向けにベッドに倒されると、バスローブで身体を隠すのはもう不可能。ハリーはおれの身体をまじまじと観察する。間接照明といえど、室内は明るい。値踏みされるように見つめられるのは、同性同士であっても気恥ずかしい。お互いが興奮を足の間に隠し持っている状態であれば、尚のことそうだ。
 素早く覆い被さってくるハリー。てっきりキスされるものと思ったが、彼の着地点は顎よりも下にあった。それはまったく予期しないアクション。彼はおれの乳首を思い切り吸い上げたのだ。思いがけない感覚に、とっさに口をおさえ、あられもない声が飛び出しそうになるのを未然に防ぐ。
「男性の乳首は解剖学的に女性のそれよりも神経が集中しているんだよ」と、上目遣いにハリー。「女性のように感じたとしても不思議はないし、別に恥ずかしがることもない」
 だ、そうだ。男性諸君。乳首を責められて感じたとしても、きみは異常ではない。ご安心を。
 指先でつままれ、ひねられる。形が変わるほどの強い愛撫に『こんな風に扱われるのは初めてだ』と、おれの乳首。続け『でもけっこう気に入ったよ』と。
 そうか、そいつは良かった。でもおれの方はまだ戸惑ってる。なんたって部屋が明るすぎるし、ここまでの展開も急すぎる。
 首やら耳やらに舌を這わされ、胸やら脇の下やらを撫で回される。そうまでしても肝心なところはノータッチ。“きみを強姦するつもりはない”ってのはそういう意味なのか? 二塁までは出るがホームランはなし? ハリーはおれの下着を脱がそうともしない。黒のアンダーウェアでよかった。他の色であればシミが広がっているのがモロバレだもんな。
 天井に視線を据えつつ、おれは切れ切れに言葉を発する。
「あの…ハリー…それは……ちょっともう……」
「なに?」
「“遠慮します”って言うか……」
「なにが?」言いながら、乳首をきゅっとつまむ。
「…っあ!!………駄目…です…」
「駄目とは? なにがだ? きみはもうこんなになっているのに?」
 “こんなに”ってのが、どんな状態を指すのかは置いておくとして、おれはハリーの手に自分の手を重ね、その動きを静かに制した。
「ハリー、おれは……何て言うか……その……」
「勃起してる」
「ええ、そうですね。それはしてますが……」
「ここもね」彼は乳首に歯を立てた。そのまま、吸い付いたり舐めたりを繰り返す。
「う…ぁ……ハリ……嫌……」
 そうおれが呻いた途端、彼はがばっと顔を上げた。
「“嫌”とか“駄目”とか、否定的な言葉ばかり使うんじゃない。きみは本当に嫌がっているわけじゃない。それはつまり、ただ単に恥ずかしいだけなんだろう?」
 ああ、まったくその通り。思い切り言い当てられた。本当、これこそが“恥ずかしい”。
「そりゃ恥ずかしいですよ。なんだか馬鹿みたいに感じ過ぎてて」
「感じるようにやってるんだ。あたりまえだろう」
 はっきり言うハリー。まるで上司に説教されてるかのよう。ベッドで議論しているのはどちらもいい大人で、おれはヴィスコンティ映画の美少年じゃない。親子ほども年の離れた男にいいようにされて、あられもない声を上げてるってのは、おれにとって普通に恥ずかしいことに他ならない。
「“嫌”とか“駄目”じゃなく、もっと気持ちに添う言葉を使うんだ。そうでないとわたしは混乱する。相手のことを考えるなら、分かり易いコミュニケーションを心がけるべきだとわたしは思うが……きみはどう思うね?」
「ええ…おれも……そう思います」
 なんだか仕事のような会話だ。とてもセックスにまつわることとは思えない。
「では続行しよう」と、彼が宣言したとき、おれはもう少しで『イエス・サー(敬礼)』と返答してしまいそうになったほど。
 続行続行、続行だ。キスと愛撫、キスと愛撫……。下着はベッドの外に落とす。それからまたキスと愛撫。マラソンランナーのように、それはいつまでも続けられる。
 彼は前戯に時間をかけるタイプなんだろうか。ゆっくりやるのはおれも嫌いじゃないが、それにしてもやけに長い。このくらいの年齢になると、すぐに獲物に食いつかないでいられるような忍耐を持つことが可能となるのか。ハリーは我慢強いのかもしれないが、こっちはそうでもない。彼の手をとって自分にあてがうのはルール違反かな? その種のデータの蓄積がおれにはない。こういうときに自分は何をすればいいのか。分かり易いコミュニケーションを心がけるべきであれば、ただ汗をかいてうめき声を上げる以外のことをした方がいいのはわかりきっているのだが……。
 ハリーは両手でおれの顔を包んだ。そのときだ、信じられないことが起きたのは。彼がおれの舌を強く吸い上げたその瞬間、それと同時に───自分でも信じられないが───おれはいきなり射精してしまった。キスだけだ。どこにも指一本、触れてない。なのに身体に電気が走り、体液がほとばしって……ハイおしまい。
「おぉ……ディーン」目を細くし、ハリーは首を振る。
 こちらは息も絶え絶え。撃たれた羊のように、まともに身体を起こすことができない。
「ごめ……ハリ……ごめん……」
 起き上がろうとするおれを、ハリーはそっと押し戻す。指の背で頬を撫で「あやまることはない」と、優しくささやく。
「きみはなんと素晴らしいのだ。感じやすく、愛らしい……」
 愛らしい? この評価がおれに向けられた言葉だといったい誰が思うだろう。それにしてもこれはどんな魔法なんだ。ペニスに触れずしてイカせることができるなんて。きっとUFOに乗った宇宙人が、目に見えないマイクロウェーブか何かでおれのディックを宇宙から操作しているに違いない。ちくしょう、宇宙人の奴め。
「ハリー、あの……おれ、いつもはこんなじゃないんだ。本当、こんなことって……ありえないよ」
 必死の弁明。おねがい、信じて……だめ?
 切々と訴えるおれを無視し、ハリーはふたたび作業に戻る。キスと愛撫、キスと愛撫……あんたはおれをどうしようって言うんだ!!! いや……行き着く先はわかってる。彼は背中から、おれの尻の割れ目に指を滑り込ませる。そらな、とうとうきた。働き者のハリーの指が、この場所を見逃すわけがない。さあ、いまこそ“分かり易いコミュニケーション”の登場だ!
「ハリー、頼む。おれはあまり慣れてないんだ」
「どうして欲しい?」
「痛くしないでほしい」
「それはもちろん」
「ほんと? そうできる?」
「できるとも」
 わお、すごい。自信満々だ。ちょっと安心してきた。“ゲイの中のゲイ”だったら、そんなオーダーは朝飯前なのかもしれない。
 おれの足の間に顔を潜り込ませるハリー。舌で入口に触れ、湿った音と熱っぽい息がベッドの上に充満し出す。どうやら上手いのはキスだけじゃないらしい。舌ですることなら、彼はなんでも得意なのだろう。おそらく。
 ゆるやかな快楽の波に漂い、うっとりと目を閉じていると、ハリーは不意に身を引いて上半身を起こした。見ると、彼はコンドームを装着し出したところだった。一体いつそんな用意をしていたのか。
 黒いラバーに覆われたそれを見た瞬間、“ちょっと安心してきた”が霧散した。頭に流れるはバナナボートソング。“♪ディーオ、ディィィーオ。日の出だ、おうちに帰りたい……”
 土壇場になって、『そんなつもりじゃなかったの、ごめんなさい』と言う女の気持ちが今、わかった。アルコールをもっと摂取していれば、ここで冷静にならずに済んだだろうか? それはそれでまた別の問題が浮上しそうではあるが。こうなったら“痛くしない”という、彼の言葉を信じるしかない。



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